四日市諏訪太鼓保存会について

戦後、四日市港まつり(現 大四日市祭り)を活気付かせる為、昭和35年に初代会長 保位保氏、初代四日市諏訪太鼓振興会会長 後藤藤太郎氏が長野県岡谷市の御諏訪太鼓宗家小口大八氏と小口栄一郎氏より指導を受け、諏訪神社の奉納太鼓の復興のため四日市諏訪太鼓保存会が結成されました。

現在は夏の大四日市祭り・秋の四日市祭り・さくらまつり(エキサイトバザール)を中心に、各種イベントで演奏しています。


基本理念

四日市諏訪太鼓保存会では小口喜代人氏の覚書を太鼓打つ時の心構えとして教えて頂き、それを現在も定めています。


四日市諏訪太鼓とは

四日市空襲で四日市祭で使用されていた山車の大半が焼失し、昭和35年、廃れてしまった祭をどうにかするため、長野県の無形文化財に指定されていた御諏訪太鼓の宗家 小口大八氏を四日市にお招きし、太鼓の指導を受けました。 各商店街から人を集い、お金を出し合い、太鼓を購入して幾度と無く練習を重ね、四日市で初めて諏訪太鼓が披露されたのは四日市祭の前身である港まつりでした。その当時のチーム名は「四日市商店連合会」。 当初は太鼓の打ち手も足らず、小口大八氏や長野県の人々の力を借りての演奏もありましたが、「商連」と背中に書かれた法被を着て太鼓を演奏し続けると太鼓を叩きたいという人々が増えていきました。太鼓の打ち手が増えると商店連合会は「玄龍」と「白虎」という2つのチームに分かれます。 その後にも打ち手は増え続け、青年会議所(JC)、中部近鉄百貨店、岡本総本店など企業のチームが作られて行き、昭和40年、諏訪神社奉納太鼓の復興として四日市諏訪太鼓振興会が結成され最盛期には38ものチームがありました。 夏の大四日市まつりにおいて四日市諏訪太鼓はトラックの荷台を舞台として演奏しています。演奏を終えればまた移動して次の演奏場所へ。それはより多くの方に演奏を聞いて頂きたいという想いからです。 このようにして現在、四日市諏訪太鼓は大四日市祭の花形として市民に親しまれています。

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